№89 「人 生 100年  か ら だ と コ コ ロ の 健康づくりへの挑戦」

さわやかインタビュー
表情豊かに、身振り手振りを交えてお話しくだ さりました。激動の時代を松田会長と二人三脚 で駆け抜けたお話に、私たちはすぐに引き込ま れました

令和2年11月9日(月)

JR東日本スポーツ株式会社
代表取締役社長 江藤 尚志 様

 JR東日本の副社長・社長・会長・相談役を歴任した故・松田昌士様の秘書を20年もの間務め上げ、高崎支社長、東京駅長を歴任し、現在は駅近のスポーツクラブで有名なジェクサーを運営しているJR東日本スポーツ株式会社の代表取締役を務めている江藤社長に、激動の時代を共に駆け抜けた松田会長との思い出と、その時代を経て磨き出された仕事観を伺いました。

国鉄への入職の経緯と、松田会長との出会い

 父が国鉄職員、という家庭で育ったにしては意外に思うかもしれませんが、私は当初、国鉄に入社する気はありませんでした。というのも、当時、国鉄はストライキの嵐。組合員の部下が、管理職の上司を糾弾するのが日常になっており、それはもうめちゃくちゃでした。「国鉄をつぶしたのはジュニア・マニア・エンジニア」と世間で言われていたのもあって、2世、ジュニアである自分はばつが悪くて。そのような状況の国鉄で管理職になっていた父が家で部下について愚痴を言っているのを聞いて「国鉄はそんなにひどいのか」と思った、というのも理由の一つです。
 しかし、大学生のころに転機が訪れました。中学生のころに柔道を経験していたので、軽い気持ちで合気道部に入ったのですが、連盟の合同合宿に参加した際、そこに指導者として来られた方が偶然国鉄のキャリア組の田尾憲男氏だったのです。合宿の夜、彼から「国鉄を立て直そうと思っている。もしお前にその気があるのなら、来ないか」と言われました。乱れた組織を本気で改革しようとしているその姿、熱い思いに心打たれ、この人の下で働こうと決意し、国鉄に入職したのが昭和56年のことでした。
 さて、入社から間もなく、分割民営化の話が出てきて、昭和62年4月1日には実際に分割され「JR東日本」の人事課に配属になりました。
 ある時、当時人事課長であった夏目氏に、副社長であった松田の男性秘書としての推薦を受けました。激動の時代でしたから、男性の秘書が必要になったのです。夏目氏が言うには「君は人事課よりも松田副社長の秘書を務めてくれた方が、絶対に会社のためになる」と。加えて「ただし、松田副社長は非常に厳しい人だから、3カ月でクビになるかもしれないが……まあ、骨は拾うから行ってきてほしい」と言われたことが、とても印象に残っています。当時、私は松田と顔を合わせたことがありませんでしたから、訳も分からず、ただ「わかりました」と推薦の話を聞いた形です。
 そして、平成3年6月3日。後にJR東日本の代表取締役社長、そして会長となる松田の秘書になりました。「3カ月でクビになるかも」と言われていたのに、それからなんと20年と14日間も秘書を務めることになるとは、当時は思いもよりませんでした。松田はその後副社長を2年、社長を7年、会長を6年、相談役を5年と歴任していくのですが、その間ずっと、一緒に歩んできたのです。

松田元会長の覚悟に影響を受ける

 20年間の松田との日々は、到底語りつくせないものです。その中でも最も強烈に印象に残り、私のその後の仕事人生にも大きな影響を及ぼしたのは、松田が会長を辞めるに至った経緯です。

部屋に江藤社長が入室された際、真っ先に 机に置かれたのは、故・松田会長の生前の お写真でした

 松田は、平成17年12月に発生したJR羽越本線脱線事故の責任を取り、翌年、JR東日本代表取締役会長を辞し、相談役へ退きました。その事故は、ダウンバーストと呼ばれる強い突風に列車があおられて脱線し、お客様が5名亡くなられたという、悲惨なものでした。
 この辞任は、なにも突然のことではありませんでした。実は、同年4月に、JR西日本の福知山線脱線事故でお客様が大勢亡くなられた事故があり、その時から松田はこう言っていたのです。「もしもJR東日本でお客様が亡くなるような事故があったならば、俺は責任をとって会長を辞める。経営者は、重大な局面ほど絶対に逃げちゃいけない。」と。その覚悟があっての、会長辞任だったのです。
 この松田の覚悟は、骨身に染みました。数年後、松田の秘書を降りた後で、何度もその影響を感じる出来事がありました。

Heart to Heart44号には、故・松田昌士会長のさわやかインタ ビュー記事が。予習してきてくださったという江藤社長は「見 た瞬間に、なんか……しびれましたよ。松田がまだ元気な時の 姿ですもんね」と一言。深い絆を感じます

 私の次の異動先は、私を秘書に推薦した人事課長、夏目氏が代表取締役を務めていた縁でJR東日本リテールネット── N e w D a y s やKIOSKを運営している会社でした。この人事には、20年の垢を落とす、といった意味合いが強かったように思います。私を秘書に推薦した夏目氏の心遣いもあったのでしょう。在職していたのは9カ月。本当はもう1年いる予定だったのですが、高崎の支社長のポストが空いたとのことで、そちらに就任しました。
 その高崎の支社長時代に、試練がありました。男性が線路内でしゃがみ込んでいたところを、女性が助けようとして電車にはねられ、亡くなるという事故が発生したのです。
 その対応にあたる時、ふと「松田だったらどうするのかな」と、思いました。
「逃げちゃいけない」という松田の言葉が、あの時はずっと頭に浮かんでいましたね。
 松田の過去の言葉──松田の覚悟に背中を押されて、マスコミが押し掛け、報道を通して世の中からバッシングを受ける中で、周りは私を心配して「もうマスコミの前に出ていかなくていい」と言うのですが「平気だ」と言って出ていっていましたね。また、月命日や七日ごとの法要にも足を運び、遺族の皆様との対話を欠かしませんでした。
 そして、四十九日に合わせて、現場に女性の行動をたたえる碑を建てたのです。当日、マスコミの前で女性のお父様とずっとお話をしていました。私はお父様から、そして世間から責められてもおかしくない立場でしたが、それを覆したお父様の言葉が忘れられません。「こんなにありがたいことはない。娘は本当にいい死に方をした」と。これは忘れられないですね。マスコミのバッシングもそれから下火になっていきました。
 この出来事は、きっと天に試されたのだろうな、と思います。そして、社内からはその対応を見られていた。「20年もの間松田に仕えていて、松田の想いというものを、江藤はどれだけ体現できるのか」と。そしてなんとか合格点に達した、ということもあったのでしょう。次の異動先は東京駅。平成26年──ちょうど東京駅100周年という記念すべき年に、東京駅長に就任することになりました。
 その時、当時の社長の冨田氏から「社員を大事にしてほしい」と言われたのをきっかけに、ずっと実践してきたことがあります。東京駅には600名ほどの従業員がいたのですが、彼らの誕生日には必ず持ち場まで足を運んで、ハッピーバースデーの歌を歌い、握手をすることです。600人近くいたので、ほぼ毎日のことでした。時には一日に5か所回ることもありました。
 東京駅は「家」であり、駅員は「子供」と思っていましたね。駅員には私のことを親方と呼んでくれ、と言っていましたし、誕生日もそうですが、職場を去る人へは、メッセージカードを欠かさず送りました。顔を思い浮かべ「こんな仕事ぶりだったな」と振り返りながら。東京駅で一緒に働いた縁を大切にしたいし、東京駅で働いてよかったと思ってほしくて書いていました。
 実は、JR東日本スポーツでもやろうと思っていたのですが、なにぶん各現場が離れているので、誕生日祝いはメールで送るようにしています。
 就任から3年後、駅長退任の話は、松田との食事の席で、松田から直接聞かされました。横暴なようでいて、よく私のことを考えてくれていた方ですから、引き際を見極めてくれていたのでしょう。松田への信頼から、退任を拒否する理由はありませんでした。
 また、私が国鉄に入社するきっかけになった田尾氏からは「100年目の駅長として後世に名を遺す名駅長だった」とねぎらいの言葉をかけられ、感無量でしたね。

JR東日本スポーツ 代表取締役社長就任の想い

 そして平成29年、JR東日本スポーツの代表取締役社長に就任し、現在に至ります。今年の6月で丸3年経ったことになりますね。
 JR東日本スポーツとは、全く縁がなかったわけではありません。実は私、50歳ごろまで泳ぎが苦手だったのです。そのころ、当社の前任の社長の岩﨑氏にそのことを打ち明けて「どこか教えてくれるところはないか」と尋ねたのをきっかけに、一号店であるジェクサー四谷を紹介され、通うようになったのです。もちろん客として会費を払って、週に1回30分、コーチについて教わりました。それで半年かけて泳げるようになったという経験があります。また、大酒飲みの松田の運動不足を気にして、時には水中歩行に連れ出したこともありましたね。そういった、スポーツの喜びを感じた経験や、人の健康は絶対に外してはならないという思いが根底にあったので、社長就任はこれを世の中に伝えていくチャンスだと思いました。
 就任してみると、社員の平均年齢が33歳ほどと若く、親会社からの役職者も数人しか入ってきていない。純粋にスポーツが好きで入社してきた人たちが創り上げてきた会社だというのが伝わってきましたから、なおのこと「健康を大事にせんといかんな」と思いました。
 と同時に、JR東日本時代に身に染みていた安全意識を浸透させるために、JR東日本の100%子会社にし、社名をカタカナからアルファベットに変えることで、社員に対しては「JR東日本が母体にあるのだから、なお一層安全・安心が大切だ」ということは常に言ってきました。お客様に事故があってはならないし、有事の際には何があっても、何時であっても自分に連絡するようお願いしました。
 サウナでお客様が倒れて救急車で運ばれた、といったような事故はとても稀ですが起こります。そういったことは幹部陣に即連絡が行き渡るようにしているのですが、それを一番に見ているのは私です。どうも、松田が辞任するきっかけとなったJR羽越線の事故の際、秘書として連絡窓口を務めていた経験が、そうさせる緊張感を生んでいるようです。

ジェクサー大宮のチアダンススクール所属の『Zingys』は、2018年に 世界選手権で優勝した輝かしい経歴が!

就任から3年足らずで、コロナ禍の試練

 忘れもしません、今年の2月29日、土曜日の夜のことでした。安倍総理の会見があり、スポーツジムでのクラスター発生に触れ、これからの2週間の行動が大事だという話が出ました。これを聞いて、私はすぐに翌日の3月1日から、当社の全てのジムを営業中止とすることを決断しました。
 社員からは「今の時間からですか」「1日おいてもいいのではないですか」と、かなり抵抗を受けました。しかし「うちはJR東日本グループの会社だ。安全・安心が一番。今日1日営業して、そこでなにかあったらどうするんだ。保証できないなら営業を中止しなければ」と反論しました。そして最後には「俺も責任をとる」と、私も実際に夜中の12時くらいまでかけて方々に連絡をしました。思えば、これもまた人命にかかわる話ですし、松田から受け継いだ覚悟が影響したのでしょう。
 なぜこの早い時期に営業を止めたかと言うと、新型コロナウイルスの実態が掴めなかったからです。何が原因で感染が広がっていっているのか、本当のところが分からない、そのようなときは、いったん止めざるを得ないだろうという判断でした。この判断は間違っていなかったと思います。その裏では、中央の人から色々と情報をもらっていて、自分なりに「ちょっとこれ、時間かかるぞ……」と思っていたというのもあります。
 今はさらに感染が拡大してきています。もう、ワクチンができるまでは3密を避け、うまく付き合っていくほかないと思っています。当社は日本フィットネス産業協会という団体に所属しているのですが、そこでもガイドラインを作ったので、それに沿い、さらにそれを上回るような感染対策をとり続けていく所存です。
 また、これからは全国様々あるスポーツジムの中で、事業継続が難しいところも出てくると思います。そのときにいかに、そこをご利用になられていたお客様を、我々がどれだけ支えることができるか、受け皿になるためになにができるかというところは考えています。例えば、オンラインのレッスンなど、新しい生活様式に合わせて、どう身体を動かし、健康を維持していただくのか、というところに軸足を置いていかなければならないな、と思っています。

人生で大切にしているもの

 仕事をするうえでも、人生においても、私が信条にしているのは、先程の東京駅での取り組みにも表れていることですが『人と人との縁』を大切にすることです。色々と大切にしていることはありますが、なにか一筆書いて欲しいと言われたときには「縁」この文字を選びます。
 一説によると、一人の人間がこの世に生まれ落ちてから死ぬまでに知り合う人の数は3000万人と言われています。その3000万人の中には、もちろん毎朝の通勤通学ですれ違ったり、電車の同じ車両に乗り合わせるといった、薄いご縁もあります。学校で同じクラスだった人、会社で一緒に働く人、転職すればまた別の会社の人……といった、関わり方によっては深いご縁になる人も。そう考えると、今日ここでこのようにお話をしているのも、一つのものすごいご縁だと思います。
 3000万人とただ出会うだけではなくて、その出会いをいかに大切にして、ご縁にしていくかが大切です。そのために私が具体的に取り組んでいることは2つあります。
 一つは、誠実であること。空約束をせず、必ず約束を守ること。そうした態度を、見ている人は見ていますからね。
 もう一つは、松田の秘書を務めている時にもそうだったのですが、名刺の管理です。名刺に、お会いした日付や場所、その方の情報などを書き込んで保管しており、今では2、3万枚に上るのではないかと思います。例えば最近、20年以上前、JR東日本が上場したころにお世話になった方が亡くなられた時には、その方の当時の名刺を取り出して、奥様にその名刺をお見せし「当時はこうでしたね」とお話をして驚かれ、喜ばれました。また、一度会ったことのある方は忘れませんね。向こうさんが「初めまして」と言ってきても「初めましてじゃないでしょう」と、過去の名刺を見せると、やっぱり驚かれます。
 私のこれまでのキャリアは、様々なご縁があって成り立ってきました。武蔵屋さんや新日本ビルサービスさんだってそうでしょう。クリーニングした制服を配達する先代の姿勢を、国鉄の職員が評価して、国鉄と武蔵屋さんの取引が増えて、こだま号の座席カバーの受注につながって。それが今度は新日本ビルサービスさんに清掃をお願いすることに繋がっているのですから。是非皆さんも、ご縁を大切になさってください。

故・松田会長との縁について思うこと

 JR東日本では、3年ごとに配属を変える3年人事が基本です。1年目は前任が何をしていたのか理解する1年、2年目は、自分なりに考えて進む1年。3年目は、思いを込めてやりきる1年、という考え方です。それなのに、私が20年間松田の秘書であり続けたのは、これもまたご縁なのでしょうね。まあ、実際は松田が私を手放さなかったのですが。
 実は、20年間の間に2回ほど、異動の筋に乗ったことがあるんです。一回目は、秘書についてから6年ほど経った時。ある支社の総務部長に……と言う話が人事から出たのですが、いつの間にか立ち消えました。松田が押し返したみたいですね。
 次は、松田が会長になったころ、なんと松田の口から「お前ももう長くなったからな、そろそろ出さないといけないよな。どこがいい?」と異動の話が出たのです。お酒の席でしたから話半分で「あまり近いとすぐ私を呼び出すでしょう」なんて返してね。すると松田が「だったらニューヨーク行くか」と。その場は盛り上がりましたね。その時は冗談だと思っていたのですが、それが二人きりになるとまた同じ話が出るんですよね。「お前な、ニューヨークだとな、家族も連れて行かないといけないだろう。お子さんの学校も移さなければいけないし、準備しておきなさい。」なんて言われたり。6月がJR東日本の人事異動の時期なのですが、5月になっても松田がそんなことを言うので、私も本気になって準備を始めました。家族にも「いよいよ俺、まっちゃんから離れてニューヨークだぞ」なんて言って。しかし、異動発令の前日に、人事部長が「最後に一応、念押しでもう一度松田さんに……」と確認を取りに行ったら「お前、江藤なんて出せるわけがないだろう」と、その一言で白紙になりましたね。あれはとんだ嘘つきだぁと思いましたね(笑)。
 最後、20年と14日でJR東日本リテールネットに異動になるときには、その1週間前から、松田の機嫌がすこ「お前、本当に行くのか」と、何度も引き止められましたね。当時の社長の清野氏が、私の人事については一番考えてくれていたのではないかと思います。何度も「江藤のこと、どうするんだ」と松田に直談判もしてくれていたようです。
 異動発令当日、JR東日本リテールネットの研修を受けるのに泊まりで東京勤務だったのですが、その日にすぐ松田から電話が入って「飲みに来いよ」と呼びつけられましたがね。まあ本当に無茶苦茶な人でしたね。
 その次の高崎支社長時代も、月に1度は東京で会っていました。ある日松田が「俺さ、今度、北海道で仕事することになりそうでな」と、ぽそっと言ってきたことがありました。当然私には支社長としての仕事がありますから「はあ、大変でしょうけど、ご苦労様です」と言ったら「馬鹿、お前もくるんだぞ」と、無理やり連れていかれそうになったこともありました。もう今ならパワハラの域です(笑)。
 結局、その人事は白紙になりましたが、あそこで本当について行っていたら、多分、私は今日ここにはいなかったでしょうね。
 東京駅長の時は、場所が近いもので、もっと頻繁に呼ばれていましたね。秘書を降りても、関係は途切れなかったです。

お話の中で時々、故・松田会長を「おっさん」「まっちゃん」と愛のある砕けた呼び方をす る江藤社長の思い出話に、つい私たちも頬が緩みます

 松田との間には、何とも言えない、運命めいた縁を感じています。松田と私では年が20歳離れているのですが、まったく体型が一緒だったんです。身長も、体重も、腹囲も一緒でした。顔の雰囲気も似ているでしょう。貸衣装屋で礼服を借りる時、代わりに私が行けば済むくらいでした。
 奥様の最期も、手を握って見届けましたし、今年の5月19日、松田の最期も手を握って見届けました。自分の両親だって、なかなか最期に立ち会えることがないのに。どうして──もう他人とは言えないくらい、20年と14日間、時には24時間、こうやって一緒にいたのかな、と今でも思います。そんな縁が深い松田を、最期も看取ることができてよかったなと思いましたよ。

新日本ビルサービスと武蔵屋に期待すること

 それは、このウィズコロナ期に大事な『清潔』に関するノウハウや技術を持っておられるから、それを引き続きやっていってほしいですね。新日本ビルサービスさんが、武蔵屋さんがすでに持っているいいものをきちんと打ち出していってほしいです。
 それはどういうことかというと、私どもJR東日本グループが根底に持っている『安全・安心』と同じようなものが、御社の『清潔』という商品だと私は理解しています。それを追求していってください。
 私や松田は実際に経験してきましたが、お客様の信用を一度失えば、それを取り戻すのに途方もない時間がかかります。だから『安全・安心』が商品であるJR東日本グループに属する当社は、その『安全・安心』のために、新型コロナウイルス流行の早期に、営業を中止したのです。
 仕事は毎日、似たようなことの繰り返しですから、本当に大切にしなければならない精神も薄れていってしまいます。「だから何回でも繰り返し言え」というのは、松田が言っていました。ですから、軸はぶらさず、ひたすら『安全・安心』こればかりを言っています。それと同じように、『清潔』を追い求めてほしいです。

──弊社は近年、これまで施設運営代行業における集客イベントを通じて構築してきた地域の生産者の皆様とのネットワークを活用し、お客様の建物敷地内でマルシェを開催し、建物と地域をもっと盛り上げていく、新たな取り組みを始めています。この点について、貴社とコラボレーションの機会があるかご意見をお聞かせください。

 実は、我々がやっているスポーツと、つながりがあると感じています。というのも、当社がやっているのはアスレチック──『aスポーツ』なんです。じゃあ、bは何だと言ったら、ボードスポーツで『bスポーツ』。将棋や囲碁、トランプや花札、麻雀もそうですね。次、cはケア。当社で言うリラクゼーションが『cスポーツ』。dはドメスティックで『dスポーツ』剣道や弓道と言った、世界にはない日本のもの。eは最近よく聞く『eスポーツ』ですね。
 では、その次のfは何かというと、フードスポーツだと思うんです。この、aとfは親和性が高い。なぜかというと、身体を動かすことと、食べることって「健康」という目的が共通しているでしょう。
 そういう意味では、当社のジェクサーで身体を動かしてもらって、もっと健康な身体を作ってもらうために、マルシェで地域の新鮮な食物を買って、食べてもらう。このつながりは、いつか形になるのではないかと思います。

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