№95 「日本一の魚屋になる 角上魚類の原点」

生涯青春 インタビュー
栁下浩三会長様を囲んで生涯青春! ! 日本一の魚屋・角上魚類の原点「四つの良いか」を共有し、 5Sを究め、徹底した衛生清掃に共に取り組んでまいります! !

令和4年4月21日㈭

角上魚類ホールディングス株式会社
代表取締役会長兼社長 栁下 浩三 様

負けず嫌いの学生時代

 小学校6年生の頃、まだテレビも何もない時代に阪神タイガースの強打者・藤村選手のブロマイドを見て惚れちゃって。それ以来、ずっと70年ぐらい阪神ファンです。
 中学校のとき、高校は何としても新潟県で一番野球の強い県立新潟商業に行きたいと思いました。中学3年の夏まではほとんど勉強しなかったんです。夏休みになるとき担任の先生に、「おまえ、高校どこ行きたい」「野球したいから、新潟商業行きたい」って話したら、「今の成績じゃ、とても駄目だよ」と。当時2カ月に一度ずつ模擬テストやるんですが、100番まで校庭の所へ張り出されるんです。夏休み前に張り出された7月の結果が36番だったかな。「とてもこれじゃあ、入学…駄目だよ」って。それで、夏休みずっと勉強して、9月のときに17番、11月のときには7番になったんです。自分で新潟商業に行く、という目標があったもんだから。そして、7番になっても、どうか分かんねえなと不安だったんですが、1月のテストのときに3番になったんです。これならもう大丈夫だろうと受験して、新潟商業へ行くことができました。
 受験番号だけは1番でした。生まれて初めて1番取りました(笑)。

 そして憧れの野球部に入ったんですが、半年ぐらいで肩を壊してしまった。医者に行って診てもらったら、リンパ腺腫瘍だから、半年間は運動しちゃ駄目だって言われました。高校3年間、実質選手でいられるのは2年半の中で半年も休むのは厳しいなと思って、マネージャーになりました。
 昭和になって一度も新潟県勢は、甲子園に行くことが出来ていなかったんです。ところが運がいいことに、2年生の秋の北信越大会で優勝して、昭和33年の春、昭和になって初めて新潟県から新潟商業が、やっと甲子園に行けました。
 新潟商業は、あの頃、早稲田実業と仲良くて、毎年、早稲田実業を招いて、新潟で試合をしていました。そのとき、早稲田実業で来たのが王貞治。王は当時ピッチャーとして有名で、全国大会でも優勝しましたね。だから私は王と同期なんです。
 私は運がいいというか、どうしても野球やりたくて新潟商業に行って、それでたまたま、北信越で優勝して。夏の大会は、40回記念大会ということで各県1校だったんですよ。春夏連続で甲子園に出ることが出来ました。
 私はマネージャーとして、事務的なことや他の対外試合の打ち合わせとか色々やってましたけど、常に選手たちと一緒にいて、キャプテンといろいろなことを打ち合わせしながらやって、いい経験になりました。

父の会社を手伝う

 父は網元兼卸として商売をやっていました。寺泊で獲れた魚や、全国から新潟の市場に届いた魚を、魚屋さんに卸すんです。そういう卸を昔からやってたんですが、私が高校に行ってる頃からどんどん漁獲量も少なくなって、採算取れなくなったんですね。
 私は高校卒業したら大学の予定でいたんですが、3年生の1月過ぎにおふくろが新潟に来て、「おまえのこと大学やれねえから、うちへ入って手伝いしてくれ」って。そういうことで、しょうがない、泣く泣く父親の手伝いをすることにしました。
 三輪自動車や電車に乗って、魚を売り歩く商売を15年ほどしておりました。

創業の地・新潟県寺泊本社にて、臨場感あふれる インタビュー

第一の成功
―倒産の危機の中、浜焼き機の発明

 当時は保冷車も何にもないから、夏になると生魚の保存ができない。寺泊のこの辺では、取れたサバ・イカ・カレイなどを浜で焼いて売り歩く、浜焼きというのをやっておりました。
 この浜焼きが、女性のパートさんを7~8人雇って焼くんですけど、物凄くもったいない。箱の中に砂を入れて真ん中に火と炭を入れて焼くんですが、片側焼けるまで20 ~30分待たなきゃならない。そして、20 ~30分たつと、裏返ししてまた待ってる。
 だから、こんな非効率的な焼き方より、もっといい焼き方がないかと思っていました。両側に火を立てたトンネルをつくって、その間串に刺した魚が自動的に回って、そしてUターンして反対側もトンネルをくぐって1回転してくれば自動的に焼けてくるんじゃないかと思い付いきました。
 すぐに自分で考えをまとめて、新潟の鉄工所へ飛んでいきました。こういう機械をつくってもらいたいと、いろいろ図面を引いてもらいながらお願いしたところ、設計図を4、5日したら、持ってきてくれました。「これをつくるには150万かかります」と。当時金のやりくりは父親がしていたから、私は150万でも150円でも、あんまり分からない(笑)。いいよ、お願いしますって二つ返事で。
 そして1カ月ぐらいたって機械ができてきて、自分の空想の中でつくった機械が果たしてうまくいくかどうかと非常に心配でした。魚をセットして機械を回し、20分たって出てくる魚がもしうまく焼けてなかったら、150万の機械がぱあですからね。結果は非常にきれいに焼けてきて、やったーと思いました。その機械のおかげで、人件費が、3分の1、4分の1になったんです。またスピードも3倍の速さで焼けるもんですから、今まで50箱、60箱しか作れなかったのが、150箱、200箱、作れるようになって、売り上げも3倍になりました。
 実はこの浜焼き機をつくる前の年、ちょうど私がお店に入って10年目くらいですが、「今年の暮れを越せなかったらうちは倒産するかもしれないから、おまえも覚悟しておけ」と言われていたんです。当時私は金のことは分からなかったので、そんなにうちは厳しいのかと思っていました。そんな中で浜焼き機がうまくいって、売上が今までの3倍になったので、何とか無事に年を越すことが出来ました。

第二の成功
―運搬用・発泡スチロールの開発

 またその頃(昭和40年頃)、漁船の進化がものすごく、漁の仕方が変化していました。それまで各漁船は自分の浜辺に寄ってくる魚を取るのが主流だったのですが、その頃から魚のいる所へ行って獲れるようになるという漁業に変わってきたんです。船の進化で漁船は速く遠くに行けるようになり、各漁港に全国から船が集まるようになりました。
 スルメイカ漁が一番象徴的でした。スルメイカは春先に九州のほうで生まれて、それがだんだん成長しながら北上して来ます。山陰、その次は石川県とか富山県。そして6月頃に新潟県に来ますが、一緒にイカを追って全国から300隻ぐらいの船が来ますので、それが寺泊港の他、新潟・佐渡・柏崎など各漁港に揚がります。寺泊だけでも三十隻以上、イカだけでも1000箱~2000箱揚がります。
 それだけ数があると新潟県のどこでもイカがあるので、全部築地へ送ります。私もイカを築地に送るんですけど、当時は全部木箱で、夏の暑いときに、トラックも今みたいに保冷車じゃなくて普通のトラックです。イカに氷をいっぱい付けて、こっちを昼3時頃に出ても向こうに着くのが夜中の1時か2時頃。そうすると、こっちで取れたイカはものすごく活きがいいのに、築地に行くと、ぐたっとしてとても刺し身になるイカじゃないんです。だから、値段もものすごく安く買いたたかれていました。
 何とかして活きのいいまんま送れないかと思って、思い付いたのが発泡スチロール。冷蔵庫の断熱材に使ってる発泡スチロールで魚箱を作れば、活きのいいまま、東京へ送れるんじゃないか。そんなことで、今度はすぐ発泡スチロール屋さんへ行って、発泡スチロールでふた付きの箱を作ってとお願いしたんです。
 そしたら、私のほうで金型を作らなければ、箱は作れないと言われました。金型代は90万円だったんですけど、焼き物の機械で成功したもんだから、いいですよ、と。
 それで金型ができて、箱が出来たので、うちの取り扱っている船で早速やってみました。活きのいいまま東京へ行ってくれるかなと心配しながら送ると、荷揚げ屋という揚げ降ろしの会社からすぐ電話が来ました。あんな軟らかい箱、手作業でしかやれないから駄目だって言われたけど、お願いして手で積み荷を揚げ降ろしてもらいました。
 そして、1日目、2日目は、そんなに反響もなかったんですけど、3日目になってから、今度、築地の仲買の魚屋の方で、この発泡スチロールの中に入ったイカがねえかって、注文が市場のほうに殺到したんですね。それでもって、うちのイカが他のイカの3倍ぐらいの値段で売れるようになりました。
 当時魚箱は100パーセント木箱でしたので、発泡スチロールの魚箱を作って使ったのはうちが初めてでした。翌年から、他も皆発泡スチロール箱に変わりましたが、最初の一年はイカだけで物凄い売上でした。今ではスチロールの箱があたりまえですが、50年前に私が最初に開発したのです。

新たな発想を生み出すには

 なかなか発想というのは、現場に携わっている人間でないと出て来ません。やっぱり現場でやることが原点。発想とは原点から出ないと駄目ですからね。出来上がったものに対する発想というのは改良であって、開発というのは、原点に立ってここをこうしたほうがいいなという思いに基づいて生み出せるものです。
 人間というのは、既成の事実に基づいて仕事をやるのが当たり前だと思っています。だから、仕事をするときの姿勢として、「これより何かいいやり方がないかな」「いい方法がないかな」という気持ちを常に持って仕事をしなければなりません。
 必要は発明の母と言いますが、現場に行って、このイカを活きのいいまま持っていく方法はないか、浜焼きをもっと効率的に焼く方法はないかと、いつも思っていたから新たな発想が生まれました。

小売りへの挑戦・寺泊に出店を決意

 昭和44年頃、それまでは町の道は細い道路だけだったのが、大きな道が一本出来ました。昭和天皇・皇后が植樹祭にご出席のため新潟県に来られるということで、この辺一帯の道路整備で新潟市の方まで繋がる道が出来たんです。それが、うちが魚屋を始める原点となる大事な道路になりました。
 浜焼きや発泡スチロールの箱で立て直したとはいえ、卸売りという業種自体が成り立たなくなってきました。スーパーが出来、魚屋さんが減っていくんですね。そんな中、昭和48年には新潟にダイエーが出来ました。どんなものかと、ダイエーさんはじめ周囲のスーパーを見に行ってみたら、魚はどこのスーパーもとても高いんですね。自分で直接やればあの半分の値段で売れると思いました。「このまま卸を続けても無理だから、いっそお客さんに直接半分の値段で売れれば、やれるんじゃないか。寺泊自体は小さい町でも、となりの村や町の人達も買いに来てくれるんじゃないか」。
 私は思い立つとすぐなもんですから、父の許可を取り、すぐに建築屋さんへ電話して、こういう店を作りたいと話して、後日持ってきた見積もりを見たら、5000万円でした。

 昭和49年ですからね。5000万円と言われたけど、私、5000万円であっても5000円であっても、ぴんと来ないもんですから。翌日、寺泊の銀行に行ったら、担保もないなら保証人探してこい、と突き帰されました。
 今度は保証人探しは苦労しましたが、ちょうど新潟のおじが北洋漁業で景気が良かったので頼みに行きました。当然渋っていましたが、最後は分かったと保証人になってくれました。考えてみると、昭和49年に5000万円っていうと、かなり大きな額でした。
 今冷静に考えれば、田舎の浜辺に道一本あるだけで建物も何もない所に、魚屋に5000万円の金出すなんてとてもできませんね。あの頃は全く無知だったというか、売れるだろうという気持ちだけでした。スーパーの半値以下の値段で売れば、隣町の人たちも買いに来てくれるだろうという、ただ、それだけの単純な発想でやったんですけどね。
 また、当時の私にとってみれば、5000円も5000万円も一緒なんです。そのとき、利息が10・5パーセントでした。今、考えてみれば、5000万円から10・5パーセントっていうと、一年間で利息だけで五百何十万円になります。よくもそんなばかみたいなことやったなと思いましたけど、結果が良ければ全て良しですね(笑)

寺泊店オープン、
魚屋の原点・四つのよいか

 そして、オープン当日、11月でした。9月オープンの予定がずれ込んだりもあって、お客さんどのぐらい来てくれるのかなと不安でした。それでも、開店からお客さんが途切れなく来てくれました。そして、初日の魚の売り上げは4万円でした。5000万円かけて、4万円です。ただ私は、いろんな所からお客さんが車で来て4万円も買っていただいたと、物凄く嬉しかったんです。お客さんの姿を見てると、みんな、
ものすごい活きがいいとか、安いわとか、喜んで買ってくれるのがとにかく嬉しいなと思いました。そして、明日は、もっとお客さんを喜ばしたい、と思いました。
 そのうちにお客さんがお客さんを呼んでくれて、どんどんお客さんが増えてきましてね。一日に4万円が7万、10万、15万と増え、年末には30万、お客さんが入れないくらいになりました。チラシも何もなく口コミで、「寺泊にものすごいいい魚屋がある」とお客さんがお客さんに伝えてくれるんですよね。私はただ、お客さんに喜ばれる魚をと必死になってやっているだけで、お客さんの喜ぶ姿が物凄く嬉しくて、明日はもっと喜ばせてやろうと思ってやっていました。そのうちに、お客さんに喜んでもらうには、うちは何を守るべきかなと考えました。
 うちは魚屋だから、まず、鮮度。そして、わざわざ遠くから車で来てくれるんだから、値段が安くなきゃ。そして、来ても、タラとサバとイカしかないんじゃなくて、いろんなお客さんが来るから、お客さんがいろんな魚を選べる。魚の種類が多くなきゃ駄目。そして、魚を買っていただくお客さまに心を込めて、ありがとうございましたという気持ちがなければならん。
 鮮度は良いか、値段は良いか、配列(品揃え)は良いか、態度は良いか、という「四つのよいか」を寺泊の町で魚屋やって1年目に作りました。
 47年前のこの原点が、今の時代でもこれ以外何もないんですよね。この四つを守ることが、30年たっても、40年たっても、魚屋の基本としては変わりないのかなというふうに思います。

多店舗展開・フランチャイズ店の失敗

 お陰様でその後も寺泊の店は右肩上がりに売り上げを伸ばしますが、5~6年たった頃から怖くなりました。毎年お客さんが増えてるけど、今年がてっぺんかなと。どんな商売でも、いずれ横ばいになり、その後は下がっていきます。その不安が毎年大きくなっていきました。
 そんなときに、関越道ができて関東からのお客さまが増えました。それならば、こんな不安を持ってお客さんを待つだけじゃなくて、逆に魚を持って関東に出ればいいんだと思いつきました。一番、新潟県から近い都市はどこかなと思ったら、群馬県の高崎があったもんですから、ちょうど10年後の昭和59年に高崎に出店しました。
 ところが高崎では、生の魚が全然売れません。売れるのはイカの塩辛や干物ばかりでした。なぜかなと思ったら、高崎の人たちは、生の魚を食べたことないんですね。高崎の魚市場に行ってみても、生の魚は何も入っていませんでした。だから、高崎の人たちは生の魚を食べたことないから、食べ方も分からないんです。しかし、うちは、魚を売るために来たんだから、対面でずっと魚並べて、来るお客さん一人一人に説明しながら、これは焼いて食べるとおいしいです、刺し身にしてもおいしい、と説明しながら、一人一人、生の魚食べてもらったりしていたんですね。
 そしたら、お客さんも初めて、生の魚の味、刺し身にしても焼き物にしても、分かったんでしょう。「この前おいしかった、きょうは何がいいかしら」とか聞きながら、半年もするうちに今度は生の魚が冷凍物よりも売れるようになったんですね。それで、高崎もどんどんお客さんが増えてきましたね。
 当時高崎の市長さんから、食改革していただいたって賞状を頂きました。

 そのうち、今度はあちこちから店を出してくれってお願いをいただきました。でもうちは、まだ力も何もないし、人手もないし、財力もないからとお断りしていました。すると、人間も設備もみんな用意するから、魚の供給と指導だけしてくれってことで始めたのがフランチャイズの店だったんです。
 このフランチャイズの店も3軒4軒と増えて、お客さんもどんどんやってきました。最初は、私が店を回って、こういう魚の売り方は駄目、この値段は駄目とか、こういう鮮度の魚を出したら駄目とか言うと、分かりましたって聞いていました。3年4年たってはやりだしてくると、私が言っても、「うちの若い連中も慣れたから大丈夫です。社長、そんな心配しなくて大丈夫ですよ。これで結構、売れますから」と聞かなくなりました。
 言うこと聞かないで、売れますからって言ったけど、こういうお店は私の求めてる魚屋と違う。角上という看板が掲げてあれば、フランチャイズの店も直営の店も、お客さまは角上だと思います。それならばいっそ、フランチャイズの店の契約を切ろうとフランチャイズの店のオーナーに話をしたら、オーナーは喜びました。フランチャイズと指導料月約80万円納めていたので、自分たちでこれだけ売れるようになってきたから喜んで、契約解除いいですよって。
 そして、看板の書き換え料はこちらが半分出して、角上の看板を下ろしてもらいました。それからは、ずっと直営の店だけでやってきました。フランチャイズの店は、あれだけはやっていた店が5~6年すると全部つぶれました。
 商売ってそんなもんで。今日駄目なのって、明日、すぐ響かないんです。今日、駄目な店というのは、1カ月後、3カ月後、半年後に結果が出てくるんです。1年後になってくると、どんどんお客さんが減ってきて、最終的に駄目になります。だから、毎日のお客さまに対して、満足感を欠かしてはいけない。常にお客さまが満足できる店。そういうことをやっていかなければなと私も思うわけです。フランチャイズの店を見ていて、なおさらそういうことを感じました。

うちの従業員は、よく働く

 今は7~8年前から22店舗で店舗数は増やしていませんが、売り上げは100億伸びました。これは、既存の店が日々の店づくりをやってくれているからだと思います。お店はその地域におけるお客さんの店なんですよね。だから、その地域において、魚を買うときには角上へ行って買うというお客さまをつくらなければいけません。
 それには、毎日の店づくり。値段にしても、鮮度にしても、それがきちんとお客さんに満足できる店であれば、その地域の皆さんが、魚を買うときには角上に買いに来てくれる。
 それが何かが欠けてくると、今はこれだけ競争の激しい世の中になってますので、必ず、お客さまが減っていきます。さっき言った「四つのよいか」この原点をきちっと守り抜くことが、お客さまの継続、魚買うなら角上へ行って買おう、こういうのにつながっているのだと思います。

 うちの社員は、良く働く。私は、それをものすごく感じています。盆、暮れ、正月、それから、例えば節分の日とか何とかの日、ものすごくお客さんが来てくれるのは、夜も朝も問わず、みんなが一所懸命やってもらった結果が今にあるからだなと思います。うちの社員はパートさんも含めて、ものすごく一所懸命、働きますね。
 今年の3月に、みんな一律に15万円ずつ配りました。去年は12万円だったので、今年は15万円ずつ。私はあまり前もって考えてやることは少なく、ぱっと思い付くことをするんです。振り込みではなく、封筒で現金で渡すようにと。パートも部長も分け隔てなく千二百人以上、2億近い金を現金で渡しました。

 魚屋といえば、意外と、男の人は40代、50代の中途採用しかいない。若い子どものいる人たちは、魚屋なんか勤めるもんじゃないという時代がずっと続いていた。しかし、会社は血が若くなければならない。だから、関東に数店舗を出した頃から、若い人間を入れるために各大学に案内書を出して、新規採用も始めたんですね。最初の年は3人でしたかね。3人、4人、5人と、最初は少なかったですけど、そのうち、10人、15人、20人と増えて、10年もたった頃には、常に20人から30人の人たちが入るようになりだした。
 今、うちの店長をはじめ、みんな、年齢が30代、40代って感じです。その若くして入ったときの人たちが、今、中心になってきてるなと。その時はなんとなく血を若返らせなければならんと思い、血が若くなければ駄目と思ってやってきたのが、ようやく今の店長クラス、みんな若い人間が非常に増えてきましたね。だから、いつまでも私がのさばっていちゃ悪いなと思っています(笑)。
 今はコロナ禍で減ったけど、以前は店に行くと、店長が「今晩いいですか」なんて言うんですよ。すると7~8人集めて会場も用意して飲んでね。僕はマグロと同じで動いてないと死んでしまうもんですから、今でもなんとなく動こうかなと思ってるんですよね。

会社のあり方

 私は、自分の子どもに後を継がせようと、あんまり強く思ってなかったんですね。社員の中で優秀な人間がやってもらいたいなと思っていたんです。たまたま、せがれが、私の見た中では今のところ一番いいかなと思って、結果的にせがれになりましたけど。
 事業というのは、昔みたいに家族が大事な時代じゃなくて、そのときの社員の中の優秀な人が会社を継ぐべきで、たまたま、うちのを社長にしましたが、その次の世代は社員の中で、社長にふさわしい人がやればいい。
 もちろん、せがれがいて、せがれが一番優秀ならば、それに越したことないけど、今、これだけ、千何百人いれば、中には、いろいろ優秀な社員もいっぱいいると思うから、そういう優秀な社員が会社を指導していったほうがいいんじゃないかなと思っています。
 これまで既存の22店舗にこだわったのは、私がずっと店を見て回って目を通せるのは22~23舗が限度だということです。しかし、これから私も去って、若い世代がまた増やそうと思うなら、それはそれで構いません。ただどんなに増やそうとも、一店舗一店舗が今まで角上がやってきた基準を守っていけるような店で店舗展開してもらいたいなと思います。

新日本ビルサービスに期待すること

 われわれ、魚屋、食品をやってると、衛生というのが非常に大事です。新日本さんからいろいろ指導いただいて、このコロナ禍の中でも、そんなに大過なくやれました。この2年間、コロナにやられることもなくやってこれたのは、こうやって衛生面においていろいろ指導いただいたおかげだなと思ってるんです。
 恐らく、今現在もそうですけど、食品を扱う会社にとっては、この衛生というのが命取りになる、非常に大事な一つの要点になるわけです。
 うちも、新日本さんと付き合わせてもらって、衛生に対する考え方、いろいろ関心の持ち方、その辺も確かに変わってきました。その点、こうやってお付き合いさせてもらってよかったなと思ってます。
 逆に言うならば、もっと、あなたがたのほうから、うちの各店とか回ったときに、忌憚のない意見をいただきたい。遠慮しないで、ずばずばっと言ってもらって。それで、また店側のほうと意見を戦わせてですね。そういうことも忌憚なく、お互いに言えるというような関係で指導してもらえればいいなと思っています。

一度きりの人生 仕事よりも遊びを優先する

 私は、仕事も遊びも一所懸命です。もし仕事の予定があって、遊びの予定が入ってきたら、遊びを優先します。
 遊びを優先するということは、その仕事の段取りは必ずつける。物事、段取り付けられるようにならないと、私は駄目だと思っています。どうしてもその仕事の段取りが付けられない場合は仕方ないですが、ただ几帳面に、仕事があるから駄目ですではいけない。だって、仕事より遊びのほうが面白い(笑)。
 遊ぶことによって楽しくなる。そして、また、人の付き合いもあるし、親しくもなるし。遊びというの、私は大事なことだと思います。
 もし、私が遊ばないでずっとやってきたら、20年か30年早く死んでたと思いますよ。
 今、ここまで元気でいられるのは、遊び優先でやってきたからだと実感します。

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ご自身の経験をありのままにご講話頂きました。

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