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№107 タニサケのこころを継承して

令和7年4月24日(木)
株式会社タニサケ 代表取締役社長 清水 勝己 様
清水社長の生い立ち
生まれは岐阜県の大垣市で、両親が共働きだったため、幼い頃は鍵っ子として育ちました。1歳半から保育園に預けられ、家に帰っても誰もいない状況で、兄と私とで外で遊ぶかテレビを見て過ごすことが多い幼少期でした。
運動が大好きでしたので、小学校に入ると野球少年団、中学校はバスケットボール、高校でテニスと様々なスポーツを経験してきました。
印象深いのは、高校時代のテニス部ですね。強豪校とまではいきませんでしたが、とても厳しかったのを覚えています。
挨拶と素振り、基礎練習だけを2か月、3か月くらいやり、夏ぐらいまで球は打たせてはもらえませんでした。また、50m先から先輩に「おはようございます」と挨拶しなければならず、まるで軍隊のような環境で、13人いた部員が1週間で8人辞めてしまい、残ったのはテニス経験者の4人と未経験者の私の5人でした。
使いっ走りのように先輩にお昼のパンを買いに行ったり、早朝のコート整備、練習後のボール洗いといった、今では考えられないような厳しさに耐えてきたことが、今の自分の大きな基礎になっているのかなとは思います。負けず嫌いな性格もバネになったのかもしれません。
タニサケ様に入社された経緯と入社後のご経歴
高校卒業後は、半導体を作るメーカーに入社し、5年間勤務いたしました。職場は若い人が大勢いて楽しく、待遇面も良く、安定した環境ではあったものの、将来の仕事に面白みを感じられず、転職を決意しました。
高校で経理を学んだ私は、父の友人からの紹介で、経理を募集していた株式会社タニサケに縁あって入社することになりました。
平成3年に入社しましたが、会社ができたのが昭和60年なので、まだ創業6年ぐらいでしょうか。ゴキブリキャップは当時ゴキブリ団子と呼ばれていて、婦人会で作るのが日常的でした。故・松岡会長が以前全国各地の婦人会に作り方を教えに行っており、ゴキブリ団子を置きだしてからゴキブリがいなくなる効果は私も実感していました。
池田町の子どもはゴキブリを見たことがないとまで言われていましたが、母親も作るくらい、あたりまえに手作りしていたので、周りからは「そんなもん、どこでも作っとるやろ。そんなもん売れるか」と言われて、転職したことをよく反対された覚えがあります。
経理として入社したものの、実際は総務部という形で出荷業務や伝票作成、その他雑用的な仕事を沢山しました。当時は若い人がいなくて、23歳の私は、その後10年ぐらい一番年下で、周りのおばさんに息子のように可愛がられながら下積み経験をしました。
そして、松岡会長からは明るく積極的に行動する大切さを学びました。
タニサケ様の経営と良き社風について
関根 タニサケ様は、ゴキブリキャップという独自価値を持つ商品と、故松岡浩会長が生涯をかけて築いてこられた良き社風が両輪となって、全国の中小企業が目標とするエクセレントカンパニーとして輝き続けておられます。改善提案日本一、ありがとうカード、お楽しみ食事会、タニサケ塾、そして1989年8月から一度も休まず毎月発行されている社内報「フレッシュタニサケ」など、私たち新日本ビルサービスの経営と価値観として故・松岡会長から学び、ご指導頂いたものです。
小さなエクセレントカンパニーのことをお話しください。

清水社長 改善提案制度やありがとうカードなど様々な取り組みがありますが、順風満帆というわけではなくて、件数が下がったり、提案内容が悪くなったりしましたが、その都度、制度を見直しながら継続しています。
改善提案は対象者が30名ほどおり、一人4件ほど出してくれるので、月間120件前後の提案が出てきます。
改善提案に関して言えば、過去の経験で「こういうことは書いちゃダメ」と制限をかければかけるほど、提案件数が伸びないということが分かりました。なので、社員さんに沢山提案を出してもらえる環境を作るということが、すごく大事なのだというように思います。経営者側の要望を押し付けるのではなく、「どんなことでも出してください」という受け入れる姿勢でいることが大事で、私もなるべく言わないようにしています。
1989年8月から継続している社内報「フレッシュタニサケ」はデザインもロゴも当初のままです。白黒からカラーにはなりましたが、ページ数もそのままに発行には苦労しながらも継続しています。
勘定科目も福利厚生費ではなく広告宣伝費で経費処理しているように、社内報と言えど、広告物として社内の人だけでなく、社外の方が読んで少しでも何か人生のヒントになることが大きな目的にもなっていて、とても大事なツールになっています。
関根 松岡会長からも社内報に関してのアドバイスをいただいたことを覚えています。
社内報こそ読後感が爽やかであること、みんなが元気になるような記事を載せること、写真は多いほうが良いなど、新日本ビルサービスの社内報にもそのアドバイスが活きていますね。
後継者の役割と使命について
関根 清水社長が故・松岡浩会長から「重たい物を受け継ぎました」とお別れの会でおっしゃたことを鮮明に覚えております。
ここに同席している小林廉と関根陽太郎も新日本グループの経営を担う後継者であり、後継者としての役割と使命について率直なお考えと実行されていることをお聴かせください。
清水社長 社長となって、今年の5月で丸10年になるんですが、当時、社長になる2か月前に心の準備もできないままに、松岡に同行してお得意様先に向かう車中で断る間も考える間も無く、いきなり「おまえ、やってくれ」と言われたんです。
実際に社長となって、社長業は年数を積めば慣れてきてもっと楽にもなるのかと思いきや、年々責任の重さを感じ、楽になるという感覚は全くありません。
やはり社員の生活や家族を守らなければいけませんし、会社を間違った方向に向かせてはいけないし、いろいろな思いで寝られない日が度々あります。考えないようにと思って寝るんですが、知らない間に何度も夜中、目覚めてしまいます。
松岡が社長だったころは松岡の意見が最終決定みたいな部分もありましたが、私の場合は役員みんなの意見を色々聞いて、最終的に決断することが多いです。
やはり、担当部署の長が一番現場を把握してると思うので、まず一番に意見を尊重しなければと思っています。
関根 ちょうど、この二人(小林廉・関根陽太郎)は弊社の経営コーチである藤井裕幸先生より昨年1年間学びまして。その1年間の学びをここでお伝えして。
小林 私は最初は金融機関におりました。2015年に新日本ビルサービスに入社し、それまでは営業で一人の仕事が多かったのですが、新日本ビルサービスで人を採用させていただく立場となり、仲間と一緒にいるということはこんなに楽しいんだという経験をさせていただきました。このように訪問させていただくこともそうです。
その後、私の母が社長をしている㈱武蔵屋に入社し、経理を担当するようになったのですが、コロナがあったり、戦争によるエネルギーの高騰にも直面し、利益が出なくなり本当に苦しい時期も経験しました。そういう中で、何十年かぶりで少しずつ値上げをさせていただくことになり、離れてしまったお客様もいらっしゃるのですが、多くのお客様から認めていただいて、非常に自身がつきました。そんな経験からも、もっと自信をもっていこうと感じているところです。
今日一日、タニサケ様のように安心な工場で生産をするには何が一番必要なのかとういうことを考えながら見学させていただきました。

清水社長 いずれはお二人とも会社を継がれると思いますが、準備期間はまだ長くあると思います。なので、やれることは沢山あると思いますが、多分社長のまねをしようと思ってもなかなかできないと思います。代が変わったときにはまた違う経営スタイルになるのかも分かりませんが、先代が大事にしている核の部分が受け継がれていけばいいのかなというように思いますね。
関根陽太郎 他の経営者の方と今回のようにお話しすることがある種、客観的に見る物差しになると思っています。おっしゃったとおり、核となる部分をまず学んで、その上で自分のスタイルを作っていくということをしていけばよいのかなと思います。準備期間として自分自身が学ぶ期間だと思っていますが、何があるか分かりません。
今後不慮の何かが起きるかもしれませんし、あまり時間もないと思ってはいるので、気を引き締めたいなというように改めて感じています。
新日本ビルサービスについて
関根 清水社長から客観的に見た、弊社の印象や忌憚のない評価と期待することをお聴かせください。
清水社長 とにかく元気で明るく、積極的という前向きさをすごく感じます。行動力もあって、後継者になる方は大変だろうなというふうには思いますが、社内報からも元気をもらっていますし、あの明るさは良き伝統ではないかと思います。
昨年参加したさわやかフォーラムでは、人数が多く、年齢層も高い方達をまとめて、言いたいことをばんばん発言する世代の方達からの厳しい意見もありながら、楽しそうに働いている姿に感心いたしました。そういうことが、すごく伝わってきました。
仕事と人生において大事なこと
やはり判断するときに、社員に対しても、お得意様に対しても、儲かるか儲からないかとうことよりも、正しいか正しくないか・やってもいいのか悪いのかということを大事にしたいなと思います。私は松岡のように営業スキルや人の心をつかむ能力があるわけでもなく、自分としては真面目にずっと生きてきたぐらいなので、誠実さや謙虚さをなくさないようにはしていきたいと思っています。
年数がたつにつれて横柄になるのではなく、ずっと謙虚でいなければならないと思うし、難しいですが、社長である前にちゃんとした人格者でありたいと思っています。自分が違う方に行ったりしたときに戻ってこれるような良書の読書も大切ですね。
タニサケのビジョン、実現したい未来像について
なかなか難しいテーマではあるんですが、業務的にはもう一度海外に挑戦したいという思いはあります。また、新しい製品を出し、それがお客様に支持されて、多くの方の喜びにつながっていけばいいと思います。
会社としては商売なので、利益を出さないといけません。ですが、一番は社員さんがこの会社で働いてよかったと思えるような会社になることが一番の大きなテーマですね。社員が満足してくれる会社になれば、規模は大きくなくてもいいのかなと思います。
関根 僕は何十年ぶりに御社にお邪魔しましたけど、池田町という地域の中でのタニサケ様という存在はすごく存在価値があると思うんです。
清水社長 池田町に会社自体がそんなに沢山あるわけでもないですが、地域清掃は月に1回やらせてはいただいています。池田町で操業している会社ですので、地元の人たちは大事にしたいですね。
関根 今日訪問させていただいて、あらためて素晴らしい会社だと思います。
清水社長 ありがとうございます。毎朝早く来て掃除をするんですけど、多くの社員も強制しているわけではありませんが、結構早く来てくれています。そんなことも時代と供に変わってくるかもしれないと思っていますが、松岡がいつも言っていたんです。「長たる者は部下の誰よりも損をすべし」と。
浅見 僕はユーモラスな感じで、いつもひょうひょうとしている松岡会長が大好きでした。
2、3年前に松岡会長にお会いする予定があったのですが、叶わなかったので、最後にお会いできずにいたので、関根も申した通り、原点に返ることができ、今日は訪問できてよかったです。松岡会長にははがきを書けと言われて、なかなか書けなくて。最後は、だまされたと思って書こうと決めて書き始めました。
すると、そのおかげでお客様を中心に非常に縁が深まって、自分の人生をすごく豊かにしてくれたというふうに、はがきを読み解くことで、そういう感謝の気持ちも持てたので、とにかく原点に帰れと言われたような気持ちになりました。
清水社長は松岡会長とタイプは全く違うけど、松岡会長の築いたものをきちんと受け継いで、大事なことを継続されている姿をみて本当にうれしいです。今日は貴重な時間をありがとうございました。
小林 本日はありがとうございました。お仕事も改善もすごく楽しそうにされていらっしゃる社員さんの姿をみて本当に理想だなと思いました。自分たち工場もそうしていきたいと本当に思いますので、今後ともご指導のほど、よろしくお願いいたします。
関根陽太郎 弊社代表の関根や浅見が何度もこちらに訪問させて頂いていることに入社以来ずっと触れてきて、今日ようやく伺うことができました。そして初めてタニサケ様のことを理解できたかなと思います。清水社長とは引き続き様々な機会で交流をもてると大変嬉しく思います。引き続きよろしくお願いいたします。
関根 うちの若い社員もぜひ訪問させてください。
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