№107 ミャンマーを希望溢れる国にする

生涯青春 インタビュー
安定して技能実習生を受け入れられているのはジェイサット様のおかげです。 日本とミャンマーで生涯青春! !

令和7年3月13日(木)

株式会社ジェイサット 代表取締役 西垣 充 様
日本支社長 櫟本 伸子 様

転機

西垣社長 大学まで大阪府池田市で育ちました。
 大学受験に失敗し、志望校に進学できなかったことから、就職に対する不安を感じるようになりました。「人と違うことをしないといけない」という思いが芽生え、英語を勉強しようと考えるようになりました。
 そこで、大学時代に1年間休学をしてカナダのエドモントンに留学したことが、その後の人生を変えるきっかけになりました。
 留学した1990年は移民が多く、チェコやソマリアの難民のような人や、中国の天安門やラオスの内戦から逃れて命が狙われているような人たちと仲良くなって、実際に世界で起こっている話を聞き、1年間のカナダの生活が終わる頃には、「日本人は恵まれている。せっかく日本人に生まれたのだから、いつかは海外に出てその強みを生かしたい」という思いを抱くようになりました。

ジェイサット創業までの道のり

 留学を終え、日本に戻ってきた私は、もっと海外を自分で見てみたいと思いました。テレビがすべてではないということをカナダで出会った友人らを通して知ったことが大きかったんですね。
 ミャンマーに行くことになったきっかけは、ベトナムを訪れた際、現地の人々や街の活気に触れ、「ここで働きたい」と感じていたときのことです。ちょうどそのとき、ハノイに駐在していた日本人の方に偶然出会い、「ベトナムには私がいるので、もう遅い。あなたはミャンマーへ行きなさい」と言われたのが始まりでした。
 首都のヤンゴンに着いて、たまたま知り合ったアメリカ国籍のミャンマー人のお家に泊めてもらったのですが、それなりの家で、メイドさんがいる。そのメイドさんがベランダで自分たちと全然違う物を食べていることに衝撃を受けました。タクシーもなければ、車もほとんど走っていない。ズボンを履いている人はおらず、みんな巻スカートしか履いてない。タイから飛行機でたった一時間の場所なのに、ミャンマーにはどうしてこんなにも何もないのだろう。「ここを変えたい」という強い使命感を抱いたことが、将来ミャンマーで働こうと決意した本当のきっかけでした。
 帰国後に大学を卒業し、就職しましたが、1995年7月に、長年自宅軟禁されていたアウンサン・スー・チーさんが解放されたのです。
 海外現地において、旅行会社などからの依頼を受けて旅行手配や現地サポートを行う日系のランドオペレーター会社に転職しミャンマーに赴任しました。ミャンマーを変えるには何が必要かと考えながら仕事をしていたのですが、97年のアジア通貨危機があり、帰国指示が出たことをきっかけに退職し、自ら会社を設立しました。
 ミャンマーで生活する中で、現地の人々が得られる情報が極めて限られていると感じ、まず出版事業を立ち上げました。しかし、当時のミャンマーには厳しい検閲制度が残っていて、事業は思うようには進みませんでした。
 当時日経ビジネスだけは国際郵便で取っていたんですが、みどりの窓口が鉄道のチケットをインターネットで買えるようになる仕組みをこれから開発しますというような記事をたまたま見つけた時、僕はそれをみて、「これか」と思ったんです。
 それで、旅行会社を立ち上げてホームページを作り、ミャンマー旅行を個人客に売ろうと思いました。予約はインターネットです。1999年ぐらいでしたが、ちょうどミャンマーでもインターネットが始まるタイミングでした。
 当時、ミャンマーはバックパッカーの間では「世界で訪れるべき国ベスト3」に入るほどの人気を誇っていました。しかし、日本ではミャンマーに関する正確な情報がほとんど伝わっておらず、「発言の自由がない」「地雷が埋まっている」「ミサイルが飛んでいる」といった、誤ったイメージが一般的でした。
 そこで、ヤンゴンの日常を伝えるために、ホームページ上で「ヤンゴン便り」という日記を毎日更新し、リアルなミャンマーの姿を発信し始めました。
 インターネットを通じて、旅行手配の仕事が少しずつ入るようにはなってきたものの、収入としてはまだ不安定でした。そこで、会社の経営を続けながらも、ホテルの営業職とのダブルワークを約1年間経験しました。
 その後、子どもが生まれることをきっかけにホテルの仕事は退職し、実家のある大阪・池田に戻りました。昼間はダイハツの工場で期間工として働き、夜はミャンマーの仕事を続け、その収入で自らの会社を支えるという“出稼ぎ生活”を始めました。
 そんな中、日本ではほとんど知られていなかったミャンマーのリアルな現地情報を発信し続けたことで、「ミャンマーを取材したいのですが、コーディネートをお願いできますか?」という問い合わせが、テレビ局や番組制作会社から届くようになりました。
 さすがに遠隔では対応しきれず、ダイハツの仕事を半年ほどで辞め、再びヤンゴンへ戻ることにしました。そこからしばらくは、テレビの取材コーディネート業務と旅行手配の仕事を掛け持ちしながら生活を支えました。
 また、一時期は400名ほどの工員がいる縫製工場の立ち上げと運営を請負っていた時期もあったのですが、2007年にお坊さんを発端にしたサフラン革命という民主化運動があり、半年後には死者数20万人以上と言われる巨大台風が来て工場も被害を受けたことをきっかけに、その日本企業はミャンマーを撤退、契約は解除となりました。
 「これでようやく食べていける」と思った矢先に、また状況が一変し、仕事が無くなってしまいました。これが、私の創業期となったのです。しかし、それから2年後――。ミャンマーでは30年ぶりとなる総選挙が実施され、それをきっかけに軍事政権から民政への移管が進みました。この変化を受けて、ミャンマーへの進出を検討する日本企業が少しずつ増え始めたのです。
 その企業の一つ、NTTデータさんからミャンマー視察の依頼が来ました。テレビ取材のリサーチやコーディネートの仕事を行う中で、各省庁の大臣や官僚、企業などと普段からやり取りしていたこともあり、大臣ともアポが取れますと伝えたら、NTTデータの担当の方から、あなたがやっていることは、コンサルのハイレベルなことだからコンサル会社をつくりなさいと言われたんです。そうして、ジェイサットが誕生しました。

技能実習生送り出し機関の設立

 コンサルでお金が取れるようになって、軌道に乗りはじめたのが2011年、12年ぐらいからです。
 2011年、アメリカの制裁が解けて、日本企業も進出ラッシュで会社設立の依頼が来るようになりました。すると今度は人を紹介してほしいという話になり、2012年にミャンマー進出企業向けの日系企業の人材会社を設立しました。さらに紹介したそこの企業から、一部は日本に送りたいという話になり、海外への送り出しの会社を同じく2012年につくったんです。
 当時、ミャンマーにもすでに送り出し機関は存在していました。また、ベトナムや中国の送り出し機関も視察に訪れましたが、どこも人を「物」のように扱うような企業ばかりで、とても信頼できるものではありませんでした。そのような現状を見て、「それならば自分で納得のいく送り出し機関をつくろう」と決意したのです。
 学校も、最初は日本人が経営し、日本人が教える日本語学校に依頼をしたのですが、何度お願いしても僕たちがやってほしい「働くための日本語」を教えてくれなかったため、自ら日本語学校を設立することにしました。
 当時、技能実習生の依頼は、いわゆる“ブラック”企業からのものが多く、技能実習生の送り出しは見送りました。ミャンマー国内では主に大卒者を対象とした人材紹介を行っていたこともあり、当初は日本への人材紹介も高度人材に重点を置いて取り組んでいました。しかし次第に、受け入れ企業やその関係先から「きちんとした体制で受け入れるので、技能実習生も紹介してほしい」といった声が増えてきました。
 そのような要望を受ける中で、2016年頃から、少しずつ技能実習生の送り出しもスタートすることとなりました。
 今は1年間、12カ月コースなんですが、毎月開校して、卒業生がいるという感じで、常時300から400名在籍しています。
 とはいえ、授業内容については常に改善と変化を意識しています。特にコロナ禍を契機として、インターネットを活用したオンライン授業を導入するようになりました。これにより、これまでの「詰め込み型」の授業を見直し、学習者が自立して学べるような授業スタイルへと転換を図っています。単に知識を与えるのではなく、自ら考え、学ぶ力を育てることを重視しています。
 オンラインは自分で準備して、計画を立てていかないといけないので、それができない子は、ついてこれないんです。だから、今もあえてオンラインを残して、授業は基本的に教えるのではなく、復習という形にしています。

ミャンマーの現状について

 日に日に激しさは増してると思います。去年から徴兵制が始まり、徴兵に呼ばれたら前線に行って命を落とす可能性もあるので、とにかく海外に出ようという動きはさらに加速しています。
 クーデターが起きて4年が過ぎましたが最初の3年間よりも、この一年間での変化は非常に大きなものでした。クーデター以降も、生活そのものはなんとか成り立っていましたが、徴兵制の導入により状況は一変しました。もはや「生活を続けるかどうか」ではなく、「軍に連れて行かれるかもしれない」という現実に直面することになったのです。その影響で、若者たちを中心に、一斉に国外への脱出を始める動きが加速しています。隣国タイには多くのミャンマー人が脱出し、タイの人口の10分の1がミャンマー人なんです。
 日本においても同様の傾向が見られ、昨年の国別在留外国人数の増加率では、ミャンマーが最も高くなっています。
 実は日本政府も、ミャンマーに来てる日本人と企業を保護すること、ミャンマーの人たちに日本に来てもらおうという、3本柱を対ミャンマー政策として挙げています。
 人口5300万人のうち、1000万人ほどが海外で就労していると言われており、その多くが自国の家族に仕送りをしています。本国に残る家族たちは現地での収入がなくとも、ある程度の生活を維持できています。結果、ミャンマー国内では消費財や飲食物の消費は、意外に活発なんです。

ジェイサットの事業内容と独自価値について

関根 600近くある送り出し機関と、ジェイサットさんの違いとは何でしょうか。

西垣社長 僕たちは全くコンセプトが違っていて、日本語を一から教えています。面接をしてから教育するという所が一般的ですが、最初から6カ月間なり教育をして、人材を見極めてから面接をするというのは、世界的にみても、ほとんどないようです。もちろん内定後も教育は続き、来日2週間前まで日本語教育は続けられます。
 だからわれわれは送り出し機関としては人数が多そうに見えるけど、多くないですよ。われわれみたいな方式だと、年間1000人、送ることはできないのです。
 私は、ミャンマーの人みんながみんな日本に合うわけではないと思っています。それは面接でも、われわれ分からないんです。ミャンマー国内の人材紹介だったら、3カ月間の試用期間があって、フィットしなければ交代できるわけです。でも、日本だったら、そうはいかない。
 今までは、他の送り出し機関でもミャンマー人がなぜ良かったと言うと、素材が良かったんです。送り出し機関が教育をして、日本で良くなったというよりは、もともと良かった子が日本に来てるので、すごく評価を受けてますというのが、これまでで、多分、これからは、そういう子がどんどん減っていきます。できていない子も別にレベルが低いわけではなくて、教育できる機会がなかっただけだと思っていて、そこをわれわれはやるべきだと思っています。
 それぞれの素養で行っているものを、私たちは教育で賄うのです。

ジェイサットと新日本グループのパートナーシップについて

櫟本支社長 月に1回、貴重な時間をいただいてるんですけど、オンラインで来日前から面談をしていただくというのも、信頼関係を築いてもらうためです。いろいろ情報をいただいたり、現在のヒアリングをしたりして、そこで問題が起こっていることを来日前にどういうふうに伝えていけば、その後問題が起こらないのかということを検討して、カリキュラムに入れていっていただいてるんです。そういったものは継続して、徹底していきたいなと思っています。

技能実習生制度の課題と今後の展望

櫟本支社長 技能実習制度はもともとは、受け入れ企業さまは人手不足だから入れてるのにもかかわらず、技能実習制度の建前としては、国際貢献。人道援助なんだということ、そこが根本的にずれているので、そこからが問題なんですね。
 いいミャンマー人を、いい会社に入れるという仕組みができれば、問題はかなり減るのではないかと思うので、人材のスクリーニングに加え、送り出し機関と受け入れ企業のスクリーニングも、恐らく大切なのかなとは思ってますね。

西垣社長 技能実習制度が問題ではなくて、そこの運用の仕方の問題であって。だから、きちんと運用すれば、それはきちんとできるし、どちらをフォーカスするかによって見方が全然、違ってしまう。

関根 西垣さんと櫟本さんからすると、われわれ新日本ビルサービス、武蔵屋は、どんなふうに映りますか?

西垣社長 技能実習生に対して、非常に先駆的な取り組みをされています。
 多くの企業では、業種に関係なく「N1」など高い日本語能力を持つ人材を管理者に据えようとする傾向があります。しかしその結果、日本語は堪能でも現場経験が乏しく、実際の業務がうまく回らないという問題が生じることも少なくありません。現状では、ほとんどの企業がそのような発想にとどまっているのが実情です。
 その点、「技能実習生を管理者へ」という御社の先駆的な発想は非常に意義深く、私も成功事例としてたびたびご紹介させていただいています。
 多分、御社にとって当たり前かも分かりませんが、まだ、日本国内、全国的には全然、一般的じゃない。

仕事と人生において大事な事

西垣社長 ミャンマーの方々にできないこともたくさんありますが、逆に、日本人にはできないことをミャンマーの人たちができるということもあります。大切なのは、それぞれが自分にできる範囲で、誰かのために力を尽くすことだと思っています。
 それは一見、他人のための行動に見えますが、実は自分自身にとって一番楽しく、やりがいを感じられることでもあるのです。それは人が生きるうえでの本質的な営みであり、私はその価値を大切にしたいと思っています。

ジェイサットの夢とビジョン

西垣社長 「国を何とかしたい」ってやってきましたけれども、1人でできる力は限られてます。だから、今は、こうやって仲間が増えてきて。ある意味、われわれJ–SATアカデミーで育成してる今の実習生とか、この子らも一緒で。最近、みんなに言ってるのは、「僕の思いを、みんなで継いでください」と。私一人でできるのは限界があるので、「皆さんがこの国をつくってほしい」と。「皆さんが日本をサポートするという気概でいってください」って言って。それが広がればいいなと思うんですね。

櫟本支社長 ミャンマーに関して言えば、西垣の思いをしっかり受け止めて、それが、どういうふうに自分ができるのかっていうことを考えるだけですね。
 ジェイサットに入社したことは私の幸せです。

関根 素晴らしい。櫟本さん、全部やってくれますから。櫟本さんいなけりゃあ、われわれ回らない。
 西垣さんは、学生時代にたまたまミャンマー行ったことがきっかけになって、これだけのね。普通の人生じゃないですよ、これは。

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